首塚胴塚供養〜柿沢地区永井坂〜

2012年8月17日

首塚とその由来が書かれた碑

首塚胴塚供養

塩尻市柿沢地区で「首塚胴塚」の供養が行われました。

「南無阿弥陀仏」を唱え礼拝をする子どもたち

旧中山道永井坂から少し奥に入ったところに、戦国時代、武田信玄と小笠原長時が戦をしたときに亡くなった方々を埋葬した首塚胴塚があります。毎年、旧暦のお盆に柿沢分館主催の「首塚胴塚供養」が行われます。今年も例年と同じく8月13日に住民や子どもたちが参加して供養が行われました。供養では永福寺住職がお経を唱え、最後に参列した小・中学生が一緒に「南無阿弥陀仏」を唱え、手を合わせ礼拝をしました。供養のあと、柿沢子ども育成会会長から「首筋胴塚」の由来を聞きこの地であった出来事に思いを馳せていました。

首塚胴塚の由来

今から400年以上前、1589年戦国時代、塩尻峠から下った永井坂(柿沢)でとても大きな戦がありました。甲斐の国(山梨県)を納めていた武田信玄と深志(松本)を治めていた小笠原長時との戦です。武田信玄が天下統一を果たそうと信濃侵略をはかり、佐久地方、諏訪地方を侵略し、松本まで攻め込もうとしていました。その頃、塩尻,松本、安曇、それぞれに大名がいました。その三つの地方の大名が地元の豪族などの協力を得て、塩尻峠と勝弦峠に陣を引き、諏訪地方の武田軍に立ち向かいました。それをきいた武田信玄は甲斐の国からすぐさま出陣、今井(岡谷市)に陣を引きしばらくの間にらみ合いが続きました。兵士の数、武田軍7000人、小笠原軍5000人、と言われています。戦が始まったのは7月19日、梅雨明けのとても暑い日だったそうです。朝、武田軍が塩尻峠の小笠原軍を奇襲したところから戦が始まりました。最初は互角の戦いをしていましたが、勝弦峠を守っていた小笠原陣営が武田軍に寝返ってしまいました。小笠原陣営は挟み撃ちに合い、もう逃げるしかありませんでした。塩尻峠から逃げ帰る途中、塩尻峠を下った永井坂でとても大きな戦いが始まりました。武田の兵士にとっては手柄をあげるチャンスとばかりに甲首をとり、首実検も行われました。血で血を洗うような戦いの末、首と胴がばらばらに転がる惨状となっていました。柿沢の住民はあまりの惨状を哀れみ、首と胴、それぞれに埋葬し供養をしました。
柿沢地区には今も武田の家紋を継ぐ家系あり、武田がこの地を治めていたことをうかがい知ることができます。石碑は昭和10年、地元の有志と小笠原の末裔とで建てられたということです。
柿沢地区だけに語り継がれている伝説もあり、供養に参加した子どもたちに大切に継承していって欲しいと感じました。
(取材・編集:笠原)
 
この記事は平成24年度協働のまちづくり提案公募補助金により取材しています。
胴塚花にかこまれてたたずむ慰霊碑現在の旧中山道永井坂

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